花saku 編集部の大下直子です。引き続き、ステイホームが続いております。
テレワークをしながらときどき、テレビ電話などかかってきますと、
ノーメイクにTシャツ姿でたちまち「照れワーク」と化してしまいます(゚◇゚)
さて、先日の令和になってまるまる一年のつづきです。
私たちの国、日本はご存じの通り「万世一系」です。その長い歴史の中で、
日本の第一礼装である喪服は白い時期の方が長かったというのは、実に興味深いことで面白いですね。
昨今、一番印象深いのは、中村勘三郎丈の葬儀の報道でした。
奥さまの好江さんが白い喪服で登場したときの驚き。そして当時「白い喪服」の検索も一気に増え、
それにともなうブログや記事も当時、急激に増えていきました。
「二度と別の人にの色に染まらない」という意味があるなど、
その凜とした姿と覚悟に共感や賛同が寄せられ大きな話題になりました。
このブログには著作権や肖像権があるので、好江さんのお写真は掲載できませんが記憶に無い方はぜひ、検索してみてくださいねー。
そして、当時「実は白い喪服のほうがかつては一般的だった」という記事も同時に、圧倒的に増えていきました。
白い喪服の裏付けとして『日本書紀』や『隋書倭国伝』には、「喪服が白かった」という記述があります。
ところが、平安時代にその白かった喪服は突如として喪服が灰色なります。
え?黒じゃなくて灰色?
とふしぎに思われる方も多いと思いますが、黒くなるのはまだまだず〜〜〜っと後のことなのです。
喪服が白から灰色になってしまった……その理由……実はちょっとズッコケているのです。
歴史の合間には、そんなことがきっと山ほどあったのでしょうね。
718年の養老喪葬令により、「天皇は直系二親等以上の喪には『錫紵(しゃくじょ)』を着る」と定められましたが、
ここにちょっとした「翻訳上の誤解」がありました。要するに「勘違い」によって、喪服に色が付いてしまったという……
翻訳のミスによって色々なことが、間違って伝わってしまったかもしれない!
と考えると歴史というのは大変興味深いものですね。
学生時代は年号や、似たような人の名前を覚えることに苦労をしましたが、
着物の仕事に関わるようになってからは、
色々な勉強をしていると必ず歴史が出てくるので、歴史があまり嫌いじゃなくなっていました。
もしも、お酒が飲めない人が無理矢理にお酒を飲んだ。
そのことが誰かの手紙に「あいつと飲んだ」みたいに書かれたら、「お酒が強かった」と伝わるかもしれませんよねぇ?
歴史って、明確なことと、もしかしたら違ってることが交差して「史実」とされているのかなぁ〜なんて想像を膨らませてしまいます。
さすが、ステイホームだ(汗)時間がたくさんあるぞ〜
余談ですが、718年は養老2年。養老律令の年です。
この養老律令の中に、衣服に令で「いふくれい」と書いて「えぶくりょう」と読む法律があるのですが、
そこには衣服についてのそれはもう、たくさんの、さまざまな決まり事が定められています。
その中に「右襟令(うじんれい)」というのがあって、右の襟が手前、左の襟が後、
いわゆる現代のきものの襟合わせが1000年以上前に法律で決められ、
以来、その襟合わせが現代にも引き継がれていることに、驚きを感じると共に、日本人としての長い歴史に誇りを感じるところでもあります。
さて、白い喪服が灰色になったお話に戻しましょう。唐でいう「錫(すず)」とは、
灰汁処理した上質な麻布のことで、いわゆる白い麻の布のことなのですが、これを金属のスズと解釈し、スズ色……
つまり薄墨に染めてしまったというわけなんです。天皇の衣裳の「錫紵」が貴族階級にも広まり、
黒がより黒い方が悲しみをより深く表すという日本的な解釈が加わってどんどん喪服の色が濃くなっていきました。
本来は「喪服は麻で」という文献が「喪服は錫色に染めろ」という意味に伝わってしまったと言うことです。
韓国ドラマをご覧になる方は、葬儀のシーンで白い……と言っても生成りですが、麻の喪服姿を見たことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ところが、勘違いで黒くなった喪服は、室町時代にはまた「白」に戻ってしまいます。
理由の裏付けはほとんどなく、文献も残っていないのですが、結局喪服を黒くしたのは貴族だけで庶民はずっと白かったというのが大方の見方です。
布を染めるには大変なお金がかかります。
しかも濃く、黒く染めるというのは当時の庶民にはムリだったということかもしれません。
黒染めについては今回はお話を省きますが、真っ黒に染めるというのはそれなりに大変な技術が必要なことで、
それが完成するのはだいぶ後のこととなります。また機会があったら染めの話は別の機会に書きますね。
宮本武蔵さんなんか出てくるこれまた興味深いお話しです。
日本にやってきたキリスト教の宣教師、ルイスフロイスは、自身の著書の中で「当時の日本人の喪服は白かった」と書き残しています。
その後喪服は長い歴史の中ではほとんどが白かったことになります。
それが、明治維新を機にヨーロッパの喪服を取り入れて黒になり、それが現代に至っています。
日清戦争や日露戦争で多くの戦死者があり、葬儀への参列が多くなってしまったために、喪服の出番が増えてしまった!
そこで汚れが目立たない黒にしよう、という風習が華族の間で普及していったという説もあります。
そうして民衆の間でも、第2次世界大戦が終わると「汚れが目立つ……」などの理由から黒い喪服が普及していきました。
また、続く戦争によって誰もが潤沢に、タンス一杯のきものを持つこともできませんでした。
タンスにあるきものは、質に入り、時によっては米や芋に代わっていきました。姉妹はそれぞれ嫁いでいきますが、
喪服は姉妹でこっそりと貸し借りをしていました。また寡婦(未亡人)が増え、
女性は生きていくために別の家に嫁ぐことも珍しくありませんでした。
これらのことから「実家の家紋を付ける」ということが一般化していったという説が有力です。
喪服が正式に黒になったのは、「明治11年の大久保利通の葬儀から黒になった」「明治45年の乃木希典の葬儀から黒になった」……、
など諸説ありますが、いずれにしても外国、中でもヨーロッパの影響を強く受けていることは間違いなさそうです。
正式に政府が衣装を決めたのは、明治30(1897)年、明治天皇の嫡母・英照皇太后の葬儀の時のことでした。
政府は列強の国賓に笑われぬように、という理由から喪服を黒にすると告示しました。
その後大正4年の皇室令では宮中参内の喪服として「きものは黒無地紋付、帯は黒の丸帯、帯留(帯〆)は丸ぐけの白※、
帯揚げは白、足袋は白、はきものは黒草履」と指定されました。
しかし宮中に参内(つまり皇居に招待されること)できるのはごく限られた人たちです。庶民にはあまり関係のないことが多かったことでしょう。
一般に広まるきっかけになったのは、さらに時代がすすみ、
第二次世界大戦が終結してからになります。当時、喪服専門の貸衣装屋が、やはり汚れが目立たないからという理由で、
喪服を一斉に黒に統一したのを機に「黒の喪服」は広く世間に行き渡り現在に至ります。
衣服の歴史は時代の流れによって大きく変化をしてきました。ステイホームの今だからこそ、
普段はなかなか読み切れない本などを読みながら、こうしたしきたりや歴史、背景をよく勉強し、
改めて装いに心を込めたいものだと思いつつ、今日もまたこれからマスクを縫おうと思います。
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