次第に幅広となっていった帯は、元禄時代には九寸近い幅となり、長さも八尺から一丈二尺でした。
地質も繻子(しゅす)、綸子(りんず)、モール、ビロード、緞子(どんす)、朱珍(しゅちん)、唐織などの他友禅、刺繍、紋などもあった。結び方も吉弥結び、水木(みづき)結び、カルタ結び、はさみ結び、ひっかけ結び、御所(ごしょ)結びなどの種類がありました。
一丈二尺に九寸幅というのはほぼ享保以後帯の基準となり、結び方も更に種類が増して帯は女装美の中心をなすに至りました。
現在も行われている文庫(ぶんこ)結びは宝暦、明和の頃に始まりました。
また、最も一般に普及している太古結びは、文化十年江戸亀戸天神の太鼓橋が再建された時、芸者衆がそれにちなんで結んだ帯の形といわれています。
また後帯が多くなったのも文化文政からであり、帯留(おびどめ)をするようになったのも、ほぼこの頃からで、結び方も二十種類以上もありました。
帯の名は、身に付ける意味の「佩ぶ(おぶ)」からきたといわれています。
帯の変遷については、それだけで学問になるくらい奥の深いものですが、現在のような形は、江戸末期から明治にかけて完成されました。
江戸初期には、前後左右自由に結んでいましたが、次第に後結びが多くなり、ミスは後ろ結び、ミセスは前結びになります。
既婚の女性も後ろ結びになり、前結びは老女や未亡人の帯結びとなりました。
今のように、帯締めを使い、後ろ結びに統一されたのは明治以降からです。
帯の発達によって着物の装飾性は飛躍的に向上をします。
紐やベルトのように、単に衣服を締める補助的な道具から、美観や礼儀を表現するものへ発展し、きものと同列の主役の地位を占めるに至りました。
夾纈(きょうけち)
板締めによる絞りのことで、文様を彫った二枚の板がそれぞれ凹と凸になっていて、その間に布を挟み、板に空いた穴から染料を注ぎ入れて凹凸でしめられていない部分を染める技法。
ぼんやりとした優しい境界線と、布を織ることによって出来る繰り返し柄が魅力。
臈纈(ろうけち)
蝋を熱で溶解し、それを布の上に置いて固まったところで染めると、蝋を置いた部分だけが染まらないという、いわゆる蝋を防染に使う技法で、現在の臈纈染、一珍染、虹染などへと発展している。
纐纈(こうけち)
いわゆる絞り染めのことで、布の一部を糸で縛ったり、縫ったりして防染する方法で、今も有松には千を超す絞り方が健在。
鹿の子絞りは有名。奈良時代以降、模様染めは主に絞りの技法を中心に発展していきました。
今、染めの技法の代表といっても過言ではない「友禅染」が生まれるのはこれよりずっと後の、江戸時代に入ってからのことです。
江戸中期ともなると、元禄文化とともに、ますます贅をこらした衣装が増えていきます。
寛文八年には「衣服会」をはじめ、奢侈禁止令が幾度も発令されました。
そんな中、吉岡剣法とゆかりの吉岡染と呼ばれる色染め、描き絵模様染めの「茶屋染」「太夫染」「更紗」などさまざまな染色技法が生まれ、人気を博します。
中でも、京の扇絵師、宮崎友禅斎による「友禅染」は女性の心を捉え、一気に広まります。
これが現在の京友禅の大きな礎であることは間違いありません。