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きものの歴史

きものの歴史


1.弥生時代

魏志倭人伝(三世紀の中国の歴史書)によると、男性は巻布衣(かんぷい)という一枚の布を体に巻き付ける服、女性は貫頭衣(かんとうい)という袖なしを着ていたとされています。

2.古墳時代

七世紀には仏教が伝わります。高松塚古墳に見られるように女性の衣服は膝下までと長く袖幅もゆったりしています。
肩にはスカーフのようなものをかけていました。
男性は冠(かんむり)をかぶり詰め衿の長い袍(ほう)に袴を履いていました。

養老3(719)年2月3日に元正天皇が「衣服令」を発令。
衿は右を先に合わせる「右衽(うじん)着装法」となりました。

徐々に身幅、袖幅が広くなり、やがて男性の袍(ほう)や直衣(のうし)、狩衣(かりぎぬ)、女性の十二単(じゅうにひとえ)と呼ばれる唐衣裳(からぎぬも)や小袿(こうちぎ)、束帯といった絹織物の紋織衣装の有職装束が生まれます。
この時代、貴族には重ね着の風習が生まれ、色を重ねて季節と情景を表現するという日本ならではの感性が見られます。
庶民は麻の水干(ルビ・すいかん)筒袖の小袖を愛用していました。

武家の台頭により、盤領(ルビ・あげくび)から垂領(ルビ・たりくび)の直垂(ルビ・ひれたれ)、素襖(ルビ・すおう)という行動的な衣服が公的なものになりました。武家女性も小袖の上に打掛を羽織って略式の礼装となり、貴族に仕えていた武家や庶民の日常着だった小袖が主流になります。
室町後期には徐々に派手になっていった小袖に、「婆娑羅(ルビ・ばさら)」と称して吉祥模様を施した晴れ着を競って身に着けるようになっていきます。

長い戦乱の時代が終わり、中国や西欧諸国からもたらされた文化や染織品の影響から意匠や色彩が大きく変化を遂げます。
この時代から江戸時代まで男性も女性も、武士も町人もみな小袖を着るようになりました。

小袖が少しずつカタチを変え今のきものに近づいていきますが、もっとも大きく変化をしたのが意匠や染織技術で、友禅染や鹿の子絞りといった華やかな者も生まれました。


帯の歴史

1.室町時代から江戸時代初期

帯は安土桃山時代の頃までは腰ひも程度で、ただ結ぶだけでした。江戸時代に若干太くなりはじめ、現在のような帯になりはじめたのは江戸時代の中期だといわ れています。
きっかけは歌舞伎の流行により、女性らしさを強調するため、太い帯で華やかな結び方が生まれたといわれています。

室町時代から江戸時代初期 当初の帯は、内衣の紐が表面に表れたという程度のもので、表着である小袖も対丈(ついたけ)で身幅の広い仕立てで、幅も狭く、長さも短いものでした。
また結び目も一定でなく、地質も表着の余裂(あまりぎれ)を利用し、平ぐけにするというのが普通だったようです。
しかし、桃山時代から江戸時代初期には、平ぐけ帯の他に、名古屋帯(なごやおび)と呼ばれる組紐の帯も用いられました。


2.江戸時代(初期~寛永・延宝時代) 

江戸時代になって、小袖の形態は現在のきものにほぼ近くなりましたが、寛文前頃までは依然として一般の女帯は二寸ないし二寸五分幅で、六尺五寸ぐらいの長さであったようです。
結び方は突込帯(つっこみおび)といって、帯の端を巻きつけた帯の間にはさみ込んだ簡単なものか、花結びぐらいでした。

しかし、寛永頃から、遊女たちはすでに五寸ほどの広幅の帯を用いていたようで、寛文、延宝の頃から、この広幅の帯は歌舞伎役者の上村吉弥(きちや)が、舞台に広幅帯を結んで出たことがきっかけとなって、広幅尺長の帯が広く用いられるようになったといわれます。
結び方も、この吉弥のそれを真似て、帯の両端に鉛(しづ)を入れ、結び余りがだらりと垂れるようにしたのを吉弥結びと呼び、非常な流行をみたと伝えられています。


3.江戸時代(元禄時代~)

次第に幅広となっていった帯は、元禄時代には九寸近い幅となり、長さも八尺から一丈二尺でした。
地質も繻子(しゅす)、綸子(りんず)、モール、ビロード、緞子(どんす)、朱珍(しゅちん)、唐織などの他友禅、刺繍、紋などもあった。結び方も吉弥結び、水木(みづき)結び、カルタ結び、はさみ結び、ひっかけ結び、御所(ごしょ)結びなどの種類がありました。

一丈二尺に九寸幅というのはほぼ享保以後帯の基準となり、結び方も更に種類が増して帯は女装美の中心をなすに至りました。
現在も行われている文庫(ぶんこ)結びは宝暦、明和の頃に始まりました。
また、最も一般に普及している太古結びは、文化十年江戸亀戸天神の太鼓橋が再建された時、芸者衆がそれにちなんで結んだ帯の形といわれています。

また後帯が多くなったのも文化文政からであり、帯留(おびどめ)をするようになったのも、ほぼこの頃からで、結び方も二十種類以上もありました。
帯の名は、身に付ける意味の「佩ぶ(おぶ)」からきたといわれています。

帯の変遷については、それだけで学問になるくらい奥の深いものですが、現在のような形は、江戸末期から明治にかけて完成されました。
江戸初期には、前後左右自由に結んでいましたが、次第に後結びが多くなり、ミスは後ろ結び、ミセスは前結びになります。



4.江戸後期

既婚の女性も後ろ結びになり、前結びは老女や未亡人の帯結びとなりました。
今のように、帯締めを使い、後ろ結びに統一されたのは明治以降からです。

帯の発達によって着物の装飾性は飛躍的に向上をします。
紐やベルトのように、単に衣服を締める補助的な道具から、美観や礼儀を表現するものへ発展し、きものと同列の主役の地位を占めるに至りました。



染きものの歴史

(さんけち)

多くの文化が中国から伝わりました。染めも同様で、模様染めの歴史は奈良時代にまでさかのぼることが出来ます。
正倉院に遺る裂地に「三纈(さんけち)」という技法が存在していたことが確認できます。

「纈」という文字の付く三つの染織技法をまとめてこう呼びます。その三つとは以下のとおりです。


夾纈(きょうけち)

板締めによる絞りのことで、文様を彫った二枚の板がそれぞれ凹と凸になっていて、その間に布を挟み、板に空いた穴から染料を注ぎ入れて凹凸でしめられていない部分を染める技法。
ぼんやりとした優しい境界線と、布を織ることによって出来る繰り返し柄が魅力。

臈纈(ろうけち)

蝋を熱で溶解し、それを布の上に置いて固まったところで染めると、蝋を置いた部分だけが染まらないという、いわゆる蝋を防染に使う技法で、現在の臈纈染、一珍染、虹染などへと発展している。

纐纈(こうけち)

いわゆる絞り染めのことで、布の一部を糸で縛ったり、縫ったりして防染する方法で、今も有松には千を超す絞り方が健在。
鹿の子絞りは有名。奈良時代以降、模様染めは主に絞りの技法を中心に発展していきました。

今、染めの技法の代表といっても過言ではない「友禅染」が生まれるのはこれよりずっと後の、江戸時代に入ってからのことです。


 
友禅染(ゆうぜんぞめ)

江戸時代に入ると徳川幕府による天下太平の時代がやってきます。武家は戦がなくなり、庶民の暮らしも貧しいながら安定しはじめると、衣服も「おしゃれ」という概念が生まれ、華美を競う機運も高まります。


江戸中期ともなると、元禄文化とともに、ますます贅をこらした衣装が増えていきます。
寛文八年には「衣服会」をはじめ、奢侈禁止令が幾度も発令されました。

そんな中、吉岡剣法とゆかりの吉岡染と呼ばれる色染め、描き絵模様染めの「茶屋染」「太夫染」「更紗」などさまざまな染色技法が生まれ、人気を博します。
中でも、京の扇絵師、宮崎友禅斎による「友禅染」は女性の心を捉え、一気に広まります。
これが現在の京友禅の大きな礎であることは間違いありません。

ワンポイント宮崎友禅斎(みやざきゆうぜんさい)
~扇絵師ならではの優れた感覚~

宮崎友禅斎(1650年~1736年)
江戸中期の扇絵師。出身は京都とも金沢ともいわれますが、真実はよく分かりません。
後の時代に友禅染に携わる人が作り上げた架空の人物かもしれないという説まであるほど、その生涯は謎に包まれています。
宮崎友禅斎は、加賀藩の紺屋頭取であった太郎田屋茂平に染色技法を学んだ後、貞享・元禄年間に京都の知恩院門前に「洛東知恩院扶桑扇工友禅」という工房を構えたといわれています。
今も京都東山にある浄土宗総本山の知恩院の敷地内には、宮崎友禅斎の生誕300年を記念して、昭和29年に改修造営された庭園があり「友禅苑」と名付けられています。
東山の湧き水を引き入れた池泉庭園と枯山水庭園とで構成された昭和の名庭で、園内には二つの茶室「華麓庵」と「白寿庵」があります。

友禅斎は、知恩院の門前に構えた工房で、それまでの模様染の技術を応用して、秀麗豪華で彩色豊かな新感覚のデザインを創出し、現在の友禅染の基礎を打ち立てました。
晩年は金沢に隠棲し、加賀友禅の技法確立にも尽力したといいます。
また、友禅染の人気が高まると、『友禅ひいなかた』『余情ひなかた』という絵柄集を出版したそうです。
これは、今の時代でいうといわゆる女性ファッション雑誌のようなもので、このことが、さらに人気を広げることになり、全国的に友禅染が広まっていったのです。    
友禅の絵は、通人、粋人に大変好まれる“絵遊び”で、また絵の奥に意味が秘められているというセンスと、扇絵師らしい、非常に優れた構図を持っていたことがこのような大人気を博した要因だといわれています。