北海道の最北端から沖縄本島まで約2,400Km。
日本には、その土地土地に伝え継がれてきた『染め織り』を今も守り続ける人がいる。
そんな作り手たちを訪ねながら、東へ西へ北へ南へと日本を行く探訪紀行。
このページではウェブ限定コンテンツとして、取材時に撮影した動画を公開!
生産者や職人の方々の生の声、作業をしている姿などをご紹介していきます。
澤田 麻衣子(型絵染工房 彩苑(さいえん))京都市右京区
「蘭々模様」(『着物手帳 2019』表紙柄)
ぱちりとつぶらな瞳を見開いているかのような、可憐な蘭の花がほほ笑む小紋柄。遠目には、左右に手を広げた葉の曲線が波文様にも、七宝文様にも見えてくる。葉や茎が描くなめらかな曲線、花の首の傾け方。微妙な色が溶け合う表情。染色家 澤田麻衣子さんによる「蘭々模様」には、どれほど見ていても飽きない心地良いリズムが感じられる。
「うちの職人が独立するので、応援してやってください」と和風紅型の「栗山工房」から紹介されたのが澤田さんだった。初夏の昼下がり、自宅兼工房の「彩苑」へ向かうと、澤田さんのほっとさせてくれるような笑顔に出迎えられた。
まずは二階の一室へ。そこには見たことのない不思議な木枠の装置に、伸子張(しんしば)りされた反物がセットされていた。
5mの反物が送り出される、彩色用作業台
「これがあればどこででも作業できるからと、栗山工房の社長が作ってくれたんです。本当に優れものなんですよ」と澤田さん。筆をとると、流れるようなテンポで色を挿(さ)し始める。手が自動的に動いてしまうといった感覚は、栗山工房で腕を磨くうち身についたものだろう。
「故郷を離れる時は、染色家になるとは思ってもいませんでした」と今までのことを聞かせてくれた。
きもの好き少女から、染色家へ
新潟で生まれ育った澤田さん、きものへと続く道は和裁ができた祖母と、美容師で着付けもこなす母の影響が大きかった。小さな頃から仕事場へついて行き、きものを見るのが大好きだった。早く自分もきものを着たい、きものが欲しいと憧れていた。忙しかった母だが、澤田さんが風邪を引いたときは「きものは暖かいから」と着せてくれた。中学生になると、自分のゆかたをつくってもらって出かけたワクワク感が忘れられないそうだ。
地元で高校を卒業すると、北海道の短大の美術コースへ入学し、シルクスクリーンを学んだ後、さらに東京の文化服装学院生活造形学科テキスタイルコースへ進むが、当時隣のクラスの授業、手作業による染色が気になって仕方なかった。
卒業後は、一度帰郷し広告代理店へ就職するも、時問に追われる仕事で体調を崩し退職。母の美容院を手伝いつつ、やってみたかった染色教室を地元で探して通い始めた。想像以上に楽しかった。半年後、めきめき上達する澤田さんに先生が「本気で続けたいなら行ってみたら」と紹介してくれたのが栗山工房だった。
迷いなく京都へ移住し仕事場へ入るが、 教室で習ったことと、職人仕事は全く別物。ほとんど役に立たず、また一から習う、慣れる、の繰り返し。彩色希望で入ったが、一年間は下仕事をたたきこまれた。 きものや帯だけでなく暖簾やその他、あらゆる素材、さまざまな製品を量産できる体制の中で数多く仕事ができたことで、 作業の流れも、「栗山カラー」とよばれる配色バランスも、身についていった。
「仕事の合間に、自分自の作品をどんどんつくれ」と社長の二代目 栗山吉三郎(くりやまきちさぶろう)氏に勧められ、アドバイス受けた。ゆかた、きものと作り始めると型に面白さを感じていった。
一方で着付け教室に通い、仲間から聞こえてくる声を活かした作品で、クラフト展や公募展へ出展し続けた。
「2007年頃に熊本での展示を見た方から、同じものを作ってほしいと連絡いただいて。天にも昇る気持ちでした。その方とはいまも、いいお付き合いをさせていただいています」としみじみ。
2016年、呉服店ときもの雑誌が企画した公募展で賞をとったことを機に、 独立を果たした澤田さん。名前が広く知られることになり、人気は急上昇。仕事が増えた一方で、考えることもあった。
「わかっていたつもりでわかってなかったのが、会社に所属していた有難みでした。精神的にもそうですし、作業場を使わせてもらっていましたが、一切合切を自分でまかなわなければならなくなりましたから。そして『20年で身についた栗山カラーと自作の転換が難しいだろう』といただいていたアドバイスも、自分ではできているつもりでしたが、やっぱりできていませんでした。でもね、仕事は予想外のことがあって当たり前です。なんとかする、なるようにする、と決めて日々進んでいます」とまっすぐ前を向いている。
清楚ながら力強い「てっぽう百合」
ワインボトル、オープナー、イタリア地図がユニークな「vino2」
その名のとおり、絵を描くように作家の個性を出しやすい型絵染は、図案描きから型彫り、糊置き、彩色、地染めと一連の作業を作家本人がする。作家一人の手による緻密な作業の連続で、同じ柄を染めても最終的には、作家の技量と感性がにじみ出てくる。
窓ガラスに透ける型。どんな色が染められるのだろう
「きもの自体、ぜいたくなもの。着てくださる方には、心から楽しんでほしい」
きものを着たくてしょうがなかった少女はいま、自分と同じようにきものを愛する人を思い、丁寧な作業とみずみずしい感性で、一点ずつ仕上げている。
「最近、インドネシアのバティック(更紗)やブロックプリント(木版)を取りこんでみたら、素朴で面白い表現が出て公きました。手仕事の美しさが存分に表れるようなものにチャレンジしていきたいです」と話す澤田さん。
形の美しさだけでなく、もっと奥にあるものに触れたい。日々の暮らしの中で感じる風や、光の美しさ、ふとした瞬間の楽しみも作品へ循環させて自分のカラーとして出していけたら、と思っているそうだ。これからも迷うことすら楽しみながら、ますますきもの女子の心を躍らせてくれるだろう。
バティック柄をアレンジした「花と鳥」
(『花saku』2018年11月号掲載より)
染の里 二葉苑 東京都新宿区
江戸更紗訪問着
新宿区高田馬場駅から高架を走る西武新宿線は、程なくして神田川を越える。 さらに一駅目 下落合に近づく前からは、妙正寺川と並走。車窓を眺めていれば、 いまも染色業を営む家屋を見つけることができる。今回の取材先「染の里 二葉 苑」も、二駅目 中井に到着直前の川沿いにある。中井駅から庶民的な商店街を 抜け、風情ある妙正寺川を横目に徒歩5分足らずだが、その間にも小さな染色工 房や蒸し屋などが並ぶ。
着いたのは染色業が行われているとは思えないモダンな建物。立派な門構えを くぐると、すぐにガラス張りの工房が見渡せる仕組みになっている。2020年版『着物手帳』のコラボ協力先として打ち合わせを兼ね、取材させていただいた。
迎えてくださったのは、四代目の小林元文さんと奥さまの慶子さん。口数少なく柔らかな物腰で職人気質の元文さんと、明るく分かりやすい会話でもてなしてくださる慶子さん。このお二人によって、これほど明るく開かれた工房として生きいきしているのだと感じられた。
二本の川の間で
「落合には、かつて300軒を超す染色業者が住みついて、川のあちこちで反物の余分な染料や防染糊を洗う『水元」の作業が見られました。いわゆる友禅流しですね。現在残っているのは10軒ほどです。けれど職人さんたちの高齢化が案じられているとはいえ、いまもこの地一帯の町に支えられ、残り続けられていることがとてもありがたい」と元文さん。
新宿区の地場産業である染色業。いまも「東京染小紋」「江戸小紋」「江戸更秒」「江戸紅型」「江戸刺繡」「東京手描き友禅」「東京無地染」「東京浸染」「引染」といった技法と共に、「洗張」「手描き紋章上絵」「染色補正」「湯のし」といった裏から支える専門職が残されている。お互い にライバルというより、同志としてなくてはならない存在となっている。
いま二葉苑が得意としているのは主に、 江戸更紗、東京染小紋、江戸小紋。 「江戸小紋の魅力は、裃からくるきりりとした身の引き締まるような厳しさ、品 の良さ、江戸前の渋みと粋である」という、先代で染色作家として名を馳せた小 林 文次郎の言葉を胸に刻みつつ、新鮮さを感じさせる染め。いまこの落合の土地 で染色業を続けられていることの意味を問い続けている。その答えが、職人と一 般のお客さまが同じ工房で染めを楽しんでいる光景にあるのかもしれない。
小紋柄に隠された
江戸の粋 面白がり
これまで四代に渡り営んできた染色業。代々大切にしてきた型は数百枚はあるという。その中から、手帳柄用にと少しユニークな文様もセレクトしていただいた。江戸の人たちが、花鳥風月、自然の美しい風景はもちろん、扇や団扇、傘、煙管、面などの身の周りの器物といったものまで、実に見事に文様化し、自分たちの「衣」の中にうまくデザイン化してきた型。長年溜められた型の中には、何の柄か分かりにくいものもあり、小林夫妻に聞いてみると「何でしょうね。好きなように名前つけて使っていただいていいですよ」と実におおらかなお答え。2カ月分の柄を選ぶにも「この紋様は1月で霜柱。この松文様は2月でクリスマスのモミの木に、どうでしょう」と見立てていく。
こうした日本文化にとって大切な「見立て」を面白がる精神。梅なら梅を、い くとおりにも紋様化し尽くす心意気も、江戸の染色デザインを発展させてきたひ とつの要因かもしれない。
来年2020年に迎えるオリンピック、 パラリンピックのシンボルマークにアレ ンジされた組市松紋様も、いま二葉苑で次々と染められ、令和の市松紋様が生ま れている。シンプルな紋様だからこそ面白がる余地があると、まだまだ江戸の染め職人の心意気を見せてもらえそうだ。
江戸更紗九寸帯
*問い合わせ先
2020年創業100年を迎える染の里二葉苑は染の里おちあいに生まれ変わります
〒161-0034 東京都新宿区上落合2-3-6
Tel. 03-3368-8133
(『花saku』2019年10月号掲載より)
<京のきもの、帯> 伝統を大切にしながら、はみだし、超えていく
SCOPE COCO / 加納寛二(京都市左京区)
京都西陣の地に創業して約130年。伝統的技術により帯製品を主軸に和装全般を創作し続ける老舗「加納幸(かのうこう)」の次男として 生まれ、そのものづくりの哲学を受け継ぐ加納寬二氏。大学卒業後にきもの製造問屋で5年程修業し、加納幸に戻り3年後には工房「スコープ・ココ」を立ち上げて以来、第一線を走り続けている。
当時珍しかった、きものの「トータルコーディネート」。洋装の概念を柔軟に取り入れながら「いま」を生きる女性の感性に訴えかけ、「いま」着てみたいと思われ るきもの、そう思しれ続けるものづくりに対する氏の思いをうかがった。
「加納幸では元々、帯だけを製造していま した。当時、きものはきもの、は帯と 別々に製造するのが常識でしたので。一方、 ヨーロッパの洋服のブランドは洋服から靴、バッグまでトータルで作ることでブランドコンセプトを強く打ち出していた。そのよ うな背景もあり、きものもそのようにトー タルでご提案したほうが、より作り手の思いがお客さまに伝わるのではないか、こいうきものにはこういうバッグを持ち、こういう小物を合わせたほうがより美しく映える、そんなトータルなご提案をするほうが喜ばれるのではないか、という考えから立ち上げたのがスコープ・ココです」
国境を越え「ほんももの」の素材を求める
もの作りを支える「守破離」の精神
氏のもの作りを支えるキーワードとなる のが「守破離」である。元々は武道や茶道 における精神のひとつで、「守」は伝統を 受け継ぐこと、「破」は革新的であること、「離」はオリジナリティーを意味する。
ビジュー刺繍/熟練の職人によって、ビーズ一つひとつ刺繍していく。
「私が意識しているのは、守破離。伝統を守り、殻を破る、そして離れる。つまり独創性ですね。伝統を守りつつも新しい何か、革新的な何かを生み出していく。そのひとつの試みとして、20年程前に始めたのが『ビジュー』です。ビジュー(Bijou)とは、フランス語で宝石・装飾具のことですが、その概念を日本に持ち込み、卓越した技術をもった日本の刺繍職人の手作業によって、一つひとつ、帯に装飾を施した逸品です。おそらく日本は初めての試みだったのではないでしょうか。ただ当時は、まだ少し早かったんですね。ですがここ5、6年くらい前から多くの方々から支持されるようになりました。あと世界で一番軽くて 薄いといわれるムガシルク。ムガシルクとはインドのアッサム地に生息する野蚕(やさん)『ムガ蚕(さん)』の手紡ぎされた糸、あるいはその絹織のことです。人の手で丁寧に紡がれた細い糸の色がそのまま、金色の輝きを放ち、あせることがないので『ゴールデンシルク、『シルクの宝石』とも呼ばれます。この素材と出合ったのは、今から20年くらい前になりますが、今では多くの人に知られるまでになりました。もうひとつ、当社ならではの素材として『本羅』があります。この素材は古くは聖徳太子がお召しになったといわれており、正倉院にしか納められないような逸品でした。これもご縁があった織職人と再現しようという話になり、生まれたものです。大変軽く丈夫で、透け感のある美しい素材です。こういった日本の伝統技術が継承されるからこそ、かつてない素晴らしい素材が出来上がる。私たちはそのことにもっと誇りをもつべきですし、こうしたものづくり をとおして、その伝統技術を見直すきっかけづくりになれば」
だんまる染/松ヤ二の樹脂で、白生地の段階で柄を伏せていく。樹脂の厚さで染めつきが違う。厚く伏せた箇所は白生地の白が残り、薄く伏せた箇所は少し染まる。味のある染めが特徴。
いま着たい
そう思われ「続ける」きものとは
今年の夏は異様に暑かった、と人々もマスコミも声高に言う。ただそれはここ最近、聞かない年はない言葉でもある。それほど日本の気温は年々上がりつつあるのを皆が体感している現代。そんな「いま」においても、昔から続く和装文化、きものを着る、しかも心地よく着るはどういうことか。もちろん伝統にならう心構えや昔ながらのしきたりを大切にする心も守りたい。
ただ、やはりずっときもの文化が多くの人に支持され、広がるためにも「いま」という時代に合わせ、心地よく着てもらうための工夫も必要ではないか、と加納氏は問いかける。
「うちは非常に軽い素材『先練り』を使った単衣を15年ほど前から制作しています。先練りとは、先に生糸を練って外側のたんぱく質成分(セリシン)を取ってから布を織ることで、生地は透けるほど薄く織られても、シャッキリとした張りがある。そのため単衣に仕立てると非常にしなやかで美しい仕上がりになります。しかも軽くて着心地がいい。夏の暑い時季などは透けるということを相手に見せる、そうして見た目にも涼やかな印象になります。透け感が気になる春先には、濃い色や同色のお襦袢を合わせることで透けて見えるることはありません。
きもの本来の常識からすれば単衣は6月ごろから、とされていますが、やはり温暖化もありますし、昔ながらの単衣の時季、裕の時季に固執することなく『いま』の気候に合った着方、工夫を凝らすことで、きものを長く楽しんでいただければ。軽く着心地のいい単衣は、実際に多くのお客さまからご支持いただいています。単衣の時季が非常に長くなっていることを懸念しても、やはり弊社で製造している95%が単衣であり、それだけ単衣がお客さまに支持されていることを考えると、私の持論ですが、洋服であれば、暑いときにはシャツ一枚の時季があるように、守破離の『離』として、きものもやはり暑い時には着心地も見た目も涼やかなものを、寒い時季には寒いなりのものを着ていただくほうがやはりファッションとして生き残ることができるのではないか、と」
時代にもフィットした「のびる襦袢」を 生み出し、春先から秋口まで涼しく長く着ることができる単衣の提案。2013年に、ワコールと共同開発した和装インナーウェア「和らんじゅ」も快適な着心地を追求したシリーズとなっている。ここでも、やはり「守破離」の「離」。伝統を重んじつつも、軽やかに「暑さ」という課題を超えていく。さまざまなアーティストやブランドとのコラボレーションも、そこをとっかかり、つまりは入り口して新しいきもののファン層を開拓するためだ。音楽やほかのジャンル、異文化と融合することで生まれる批判も受け流しつつ、実際は「きもの 文化」自体の底上げをはかる加納氏の意図 が見え隠れする。
京町家ギャラリー
「唯一無二」をつくった想いとは
京町家「唯一無二」は、古い町家建築を改装し素材の風合いで室内に川と美を創り出す、世界で唯一つの和空間となっている。その造形の美しさは建築の専門誌に取り上げられるほど。細部にまで意匠を凝らした造りに日本の伝統美である和モダンインテアをあつあらえ、賛を尽くした空間ながらも凛とした雰囲気が漂う。
「伝統と未来、文化と芸衛がかさなり合う ギャラリーとして、唯一無二の場になってほしい。日本文化の真髄に融れられる和の発信基地であり、新しい才能や可能性の起点となって、さまざまざまなご縁を結ぶ場になればという思いでつくりました」
単にものづくり、で終わらず、いいものと出合える「場」もつくる。そうすることで、きものにとどまらず、日本の伝統文化の何かしらの起点となり、そこから波紋のように縁や輪が広がっていくのが、氏の狙いである。
生地も糸も自社で制作するからこそ、
生まれるオリジナリティー
ムガ蚕糸を仕入れに現地のインドまで。
何か課題がある、それを超えるために、 まったく今までにない別視点を持ち込む。 解決するための何かを外へ、外へ求め続ける。その姿勢があるからこそ、伝統技術を結集させながらも、そこから離れ、「いま」を映しだす結晶のような、あふれる情熱と鮮烈さを感させるきものが加納氏の手によって生まれ続ける。
何より、まったく新しい印象を与えなが ら、きものの「染・織・繍」といった技術 や、意匠あふれる伝統技術を用いた織生地、 絹糸などを使うことで、「いま」着たいと思われることこそが、「技術そのもの」も 次世代に継承されることにつながりうる。 素晴らしい伝統技術を残すためにも、新しいものを生み出すためにも、守破離の 「離」が核となりそうだ。
「10年ほど前、私自身きもの文化は廃れていくかもしれない、需要がなくなってしま うかもしれない、という懸念がありました。それでも、これだけ根強くファンの方がいて、今となっては海外を含めた多くの方から支持されています。今後の課題は、ものづくりを続けるために『伝統技術を未来につなげていく』こと、そてしてこれからも、きもの文化が発展していくこと、そのためにも新しい何かを提案し続けるのが使命だと思っています」
加納氏の仕事は、今後も多分や海外あちこちで化学反を起こしながら、多くの人を魅了し、広がっていくにちがいない。
京縫(きょうぬい)/絹糸や金糸、銀糸を使い30通りもの技法を駆使した完成度の高さ。京都と同じく刺繍文化が盛んなフランスでは針を刺す際に片手で刺すのに比べて、京繍は両手を使って布の上下へと自在に刺し進めることで、より繊細な表現が可能。
SCOPE COCO
1889(明治22)年、加納安治郎が京都西陣の地で創業したことから加納家の織屋の歴史がはじまる。長男の嘉一郎が業を盛んにし、さらに息子である義一、幸一兄弟が共同で継承。1949年には弟の幸一が独立し「加納幸」を設立。その歴史ある旧家の次男として誕生した加納寛二。日本大学卒業後に染色家・西村正人氏、金彩工芸家・道家康人氏に師事。1981年には、(株)加納幸に入社し、織物の研究に専念。それから3年後の1984年に工房「スコープ・ココ」を興す。伝統と独創性を融合させたオリジナルの模様とセンスが国内のみならず、海外からも注目を集め、世界的に有名なファッション雑誌「ヴォーグバリ」に和装ではじめて掲載。さらにはニューヨーク「メトロポリタン美術館」の日本館オープンに際し、作品を出展。それらの功績が認められ、代表である加納寛二は、日本文化デザイン会議の会員となる2010年には、上海万博に和装ショーで参加。近年は中国をはじめ、インドやエジプト、ヨーロッバ諸国の文化や素材を取り入れ、独自の観点と感性に西陣の技術を加えて、他にはない作品を作り上げている。
文/上田 恵理子
撮影/久保嘉範
*問い合わせ先
株式会社スコープ・ココ
(『花saku』2018年12月号掲載より)
西村織物 (福岡県築野市)
帯の三大産地といえば、西陣、桐生、 そして博多。厳しい織物産業の中にあって、近年の博多織業界は毎年現状を維持している。それほど変わらぬ人気がある ということだ。会社としては博多周辺で 10社弱が実働しているとのこと。その秘密を伺いに、最も古い織屋、創業156 年という西村織物にお邪魔した。
到着後、まず驚かされたのが広大な敷地。広い中庭を囲むように、正面に事務所社屋、左手に工場、右手がモダンな外 観のギャラリー『博多織献上館にしむら』。きょろきょろしていると、社長 西村 聡一郎さんが「こちらからどうぞ」とにこやかに、社屋へ招き入れてくれた。
幅広い年齢層のスタッフが働く室内では、図案設計者から、工場での糸繰り、整経と身体を動かす人、織機につきっきりで向かう人、どちらを見ても男女問わず、きびきびと動く方ばかり。献上帯にとどまらず、袋帯、 八寸帯、九寸帯、角帯、半幅帯、佐賀錦、 着尺、袴地、伊達締めほか小物類、そして夏物。多種類の製品は、どのように織られているのだろうか。
独自の社内一貫生産で
貫かれる丁寧さ
「うちの帯づくりは、全ての工程を社内で行っています。図案制作に始まり、糸繰りから、染色、整経、製織、検品して 札をつけ、出荷まで全てです。思いが一緒の社員たちばかり、一貫した丁寧さで進められるんです。そのために、ブラタク製糸(ブラジル産)の最高品質の絹糸を仕入れていますから」と西村さん。
工場へ入ると、糸繰りに続き、博多織の命ともいわれる経糸を操る整経作業が行われていた。他の織物には見られないほど多数の糸枠が並び、巨大なドラムに鮮やかな絹糸がシュルシュルと巻き取られている光景はまるで手品のようで、しばし見とれてしまった。
縦長の工場をさらに進むと、中央通路を挟んで並ぶ20台もの織機。両側で全ての機がガチャンガチャンとシャトル (杼)を走らせ、それぞれのリズムで目まぐるしく動いている。織られている製品の種類も多く、織手さんたちが真剣なまなざしを注いでいる先からは、献上帯、佐賀錦、伊達締めと、一台ずつ違うもの が織り出されてくる。ここでしか稼働していない織機もあり、カメラの丈夫なホルダー紐など、特注を頼まれたりもするそうだ。
「これだけの人数で織っていますが、うちは製品すべてに織手の名前を明記しています。織手にも、お客さまにもそのほうが良いと思って」とのこと。確かに、 製品の織出(おりだし)には、証紙と共に『織り人』 の名前が印字され、その責任と誇りが示されている。
博多帯職人は泣かされて
鳴かせてこそ一人前
トーン、トントントンと強く「うち返 し、三つ打ち」しなくてはいい帯にならないと、かつては男性の織手しかいなかった博多帯。西村織物では、いまも数少なくなった熟練の手織り職人が技を磨いている。
部屋の奥で一人黙々と、手機に杼を打っていたのが博多織伝統工芸士 井上久人さん。同じく織手だった父 久三さんに師事し、細かくきつい仕事を丁寧にこなしてきた。
「博多帯職人は泣 かされて、鳴かせてこそ一人前」という厳しい世界で、数々の受賞を受けるほどの腕で織り続ける作品には、ファンが多いベテラン職人だ。極細の経糸を相手に、強い打ち込みで織り出す気を使う仕事。この日は、95ミリと細く切り出 した箔糸を織り込む佐賀錦を織っていた井上さん。これこそ、少しの柄のズレも 目立つ難しい織。これも、西村織物自慢 のフォーマル帯の一つ。ベテランの手でしか生まれない風合いが、強さとしなやかさをたずさえて織り出されていた。
こんな逸品を織り出せる職人、井上さんたちの技術は、博多織学校卒業の若手 に引き継がれている。
「この先も、手織 博多のファンの期待に応えたいですからね。若手の育成も大切な課題としています」と先を見据えている。
仕掛け八割
外から見えないところで活躍しているのが「仕掛職人」。特に、経糸数の多い博多織の設計、経糸を計算して用意し、 織り出す前までを整える仕掛けの工程は難しく、時間も要する。製造工程の8割 が仕掛け、2割が実際の織といわれるほどだ。そこに伝統工芸士 松尾信好さんらベテランの経験と技は無くてはならない宝。社内では、こうしたベテランから若手までが世代を超えて大勢の社員が一緒に働くうちに、ベテランの技術と一級品への思いが、後輩たちにも自然と引き継がれ、社内を動かしている。
先祖は戦国時代の武士
博多帯の定番紋様「独鈷」と「華皿」(下画像参照)
2015年10月に6代目社長を引き継いだ西村さん。先祖は戦国時代の武士団 松浦党の一人、西村増右衛門道徹(にしむらますえもんみちてつ )からはじまった。1652(承応元)年に絹糸などの朱印船貿易を始めた増右衛門は、豪商らと共に博多の街づくりに尽力。その後、 西村儀平が博多織屋12軒のうちの一軒で修業をし、1861(文久元)年に博多区中市小路で「織屋にしむら」を構えたのが、機屋としてのスタートとなった。
1945(昭和20)年、四代目政太郎が出征している間に、福岡大空襲で会社を焼失。それでも政太郎が帰還すると、織機一台で伊達締を織ることから再スタートを切り、その後は高度成長期と共に、順調に業績を伸ばす。政太郎は商才があり、中興の祖も呼ばれている。
「この場所に、10人入る社員寮があったくらいでしたから、売上もすごいものでした」と西村さん。
五代目 父の悦夫さんは、職人肌。とにをかく大量に売れる時代、順調に増産。そこからバトンを受け取ったのが六代目 聡一郎さんだ。
「私は、一度は東京へ出て働きたくて、 地元の大学を出ると三菱重工へ勤務していました。5年ほど経ったころ、父が体調を崩して帰郷ました。そのとき工場に入ってみたら、幼い頃に工場の中で祖父に遊んでもらった記憶がよみがえったりして。知らず知らずのうちに、東京や大企業にも未練がなくなっていて、家業を継ぐ覚悟ができていました」と語る。 間もなく退職してで帰郷し、西村織物へ正式に入社。父の体調も考えて帰郷後半年、27歳で社長に就任するる。しかし物事はそう簡単には進まず、三年間懸命に務めるも、一向に上手く回らない。結局、現場のことが何にも分かっていなかったということに気づき、そこから一度社長を辞め、修業のやり直し。一から博多織を学ぼうと、『博多織テベロップメントカレッジ』へ入学。2年間通って、懸命に織ることそのものを学び、伝統や、デザインんどあらゆることを学び、工芸展でも入選するほどの腕前となった。
「あの学校は、人間国宝 小川 規三郎(おがわ きさぶろう)先生方が地元のため、織物業界のためにと創立した学校です。織の技術はもちろん、博多の文化を学びなら人間性も磨き、世界にも通用する人材を育成するためにと、国と県と市から助成金も出ています。おかげさまで、本当にいい勉強をみっちりさせてもらえました」
卒業後、会社へ戻ったころから他産地の呉服店などで、和に対する考えなど話の合う同世代の人たちと知り合え、心強くなった。その後、社長へ正式に就任。
「ちょうどそのころから、いろんな意味でで流れが変わってきた気がします。広い目を持って、外の方たちとも交流して、今後も語り継がれるような物づくりをしたい。トラディショナルでありながら、時代に合わせたおしゃれなものを、作っていきたいですね」と、目を輝かせた。
「誠実是最上」
社内をまわって感じたのは、どこを見てもきれいにすっりと片付き、人も物も、気持ち良いエネルギーで動いている会社だということ。
工場内に掲げられていたのは、心得六カ条。
自分の仕事を納得し、
協働心を持って、
常に整理整頓しながら、
機械も道具も大切に、
自分の手も大切に、
何より絹糸を 大切に。
社是「誠実是最上」の精神が、粋で品格ある製品に織り込まれて確かな締め心地となり、人々を惹きつけ続けている。
*問い合わせ先
西村織物
〒818-0061 福岡県筑紫野市紫7-3-5
Tel: 092-922-7128
(『花saku』2017年3月号掲載より)
<白たかお召し> 北限の絣織物
小松織物工房 (山形県西置賜郡)
白たかお召し(左2枚)と白たか上布(右)。サラリとした風合いが、単衣に最適。
霊鳥 白鷹が山頂に飛来したという伝説からその名が付けられたといわれる白鷹山。そのふもとに位置する人口一万四千人足らずの白鷹町を訪ねた。中心には最上川が流れ、東部は白鷹丘陵、西部は 朝日連峰に囲まれる山間の町で、豊かな自然に恵まれている。草木染の中でも貴重な紅色の染材となる「紅花」の栽培地としても知られ、近年は「日本の紅をつくる町」というキャッチコピーがつけられている。それ以外にも「白鷹天蚕(てんさん)」を養い、そして今回の目的である白鷹紬が織られる。さらには蕎麦や鮎のおいしさも有名で、国産ビールのホップまでつくっていると聞くだけで、いかに歴史があり、 文化度の高い町かがうかがえる。 そんなことを考えつつ、米沢から車で向かうこと約1時間。抜けるような青空と濃い緑の美しさで心が晴々としてきたころ、目前に現れたのが三角屋根の「小松織物工房」。「白鷹紬」の織元としてわずかに二軒残るうちの一軒で、創業百年を超える老舗織元だ。映画のセットになりそうな気持ちのよい景色の中から、六代目の小松寛幸さんが出迎えてくださった。
工房兼ご自宅という屋内では、奥さま 知見さんが「遠くまでようこそ」と冷たいお茶を淹れてくださり、ほっと一息。 早速、織物を見せていただいた。
小松寛幸さん(右)と知見さん(左)
太繊度の生糸が生む「鬼シボ」の風合い
小さな鮮柄が端正に並ぶ「白たかお召」。 手に触れればサラリと心地良い触感が、当日の蒸し暑さのおかげで、より実感できた。他産地のお召に比べてより凹凸がはっきりと立ち、「鬼シボ」と呼ばれる愛称がしっくりとくる。本塩沢(塩沢産 地のお召)などと比較されることも多い。
「一般的に、同じお召でも白たかに比べ、本塩沢のほうがシボが細かめ。西陣はさらにしなやかです。というのも、白たかお召は経糸本数は約1,400から1,500本ほどで太めの絹糸を使っています。緯糸用の強撚糸の撚り回数も、お召としては少なめです。その分、筬(おさ)密度は粗めになるので、地厚に感じられるかもしれませんが、『実際に着ると軽いのね』と、きもの通のお客さまからは重宝がられています」と寛幸さん。
白鷹町だけに残された
「板締絣(いたじめがすり)」
白たかお召のもう一つの特徴が「板締絣」。通称「ぶっかけ染め」と呼ばれる染色技法と共に生みだされるシンプルで洗練された絣柄。この技法はいまや、白鷹町にしか残されていない。この日は染色作業のタイミングに出会えなかったが、道具だけでもと、も染場を見せてくださった。硬いイタヤカデの「絣板」には、いく筋もの細い溝が彫られている。それを柄により30枚から50枚と束ね、大きなボルトで締め上げている。およそ繊細な絹糸を扱う道具とは思えないものだ。
絣板
「まず事前に水に浸けておいた絣板の溝に、きっちりと絹糸を巻いていきます。その溝位置を1ミリ単位で合わせて、大きなレンチで締め上げます。その際、溝位置がわずかでもズレれば、絣柄が乱れます。ボルトの締め具合がきつ過ぎれば糸が切れ、ゆる過ぎれば染めがクッキリとあがらず、絣柄がぼやけますので、調整が難しいところです。この絣板はひと柄分の1セットを作るのに、結構な時間もお金もかかりますし、 とにかく技術が要りなす。作ってくれる板大工(ばんだいく)さんが数名しか残っていませんから、とても貴重な道具なんです」と寛幸さん。
絣板を組み合わせ、上下から締めたところ。点々と見える穴に染料が入り込む。
締め上がった絣板は、70キロから80キ ロの重さとなる。これを染め台へ上げ、 今度は熱々の染料を柄杓(ひしゃく)ですくって約千回、1時間ほどかけ続ける。これが「ぶっかけ染め」といわれる所以となる作業だが、そのかけ方も、全体がまべんなく染まるような配分が重要。重労働でありながら、勘と経験を要する繊細な作業でもある。染めは男仕事、織りは女仕事、撚糸は雪の湿気のある冬場の作業と分けられてきた。
染め上がりの絣糸
ルーツは足利
絣柄の防染には、一般的に知られる糸で括(くく)るもの、大島細の締機(しめばた)によるものなどがあるが、いま白鷹町にしかない「板締絣」はどのように生まれたのだろうか。
この辺りでは、江戸時代初期には蚕を養い、染料の元となる紅花や、自然布の糸の原料となる青苧(あおそ)が育てられていた。その後、出羽国米沢藩 九代目藩主の上杉鷹山(うえすぎようざん)公の殖産振興により、織の産地へと発展。やがてと米沢で「米琉(よねりゅう。=米沢琉球)」とよばれる絣織物が大正10年ごろにピークを迎える。
明治後期、白鷹の先達たちがさらなる織物と、群馬県足利市から技術者を迎え入れて教わったのが「板締絣」といわれている。合わせて、カジ ュアルな紬だけではなくよそ行きの「お召」の風合いへ転換。寛幸さんの三代前の時代に、地元の三社が合同で「白たかお召」 の登録商標を取るなどし、地域ブランドを確立してきた。
男性用縞柄お召し
同じ頃、隣の長井町で は群馬県伊勢崎市から括りによる絣技術を導入し、「長井絣(ながいかすり)」が生まれていた。 1976(昭和51)年には置賜地方の米沢、長井、白鷹地区で織られているものを総称した「置賜細」ブランドが確立され、伝統的工芸品として現在もそれぞれの地域、織元の個性を発揮した織物が好評を博している。
社内一貫製造
敷地内にある自宅兼社屋の離れで、製造工程のほとんどをこなしている小松物工房。寛幸さん夫妻以外に、先代の父 紀夫さんと母 トモさん、そしてスタッフ5人ほどで「白たかお召」をメインに「白たか上布」「白たか紬」とさらに帯も織っている。単衣物として白地、黒地のものが多いが一部、地域特産の紅花など草木染も併用している。
機場へ案内されると、大正、昭和時代から使われているという織機が並び、女性たちが一心に手機を織り進めていた。
手機の上方に白無地、下方に白黒に染め分けられた絣糸がかけられている(いずれも経糸)。
「白鷹式高機」といわれる織機には、経糸用の無地の地糸を を巻いたもの、2種類の男巻がセットされている。板締絣は絣板の厚みがある分、織手が経糸と 緯糸の絣をピタリと合わせることが必須の年業。一越織るごとにに緯糸の絣位置を0.1ミリ単位で左右に微調整することで、見事な亀甲、十字絣が浮かび上がってくる。
七宝柄の絣糸を合わせながら織り進む。
また、一部の機には通称「サンカク」と呼ばれる三角形の梯子段(はしごだん)状の絣ずらし器を付属していて、緻密な板締め絣に、経暈(たてぼか)しなどの括り絣が趣を添えたべストセラーを織り出している。
織機の上に載せられたサンカク(画像左側手前)に通った数本の鉄棒を絣糸が通過することで、絣柄が合うように計算されている。
いずれも時間がかがり、大量生産できないため、いまは生産量が需要に追い付かず、織り上がるそばから売れてしまうという希少なものとなっている。
気がつけば、ずっと物づくりの現場に
「考えてみたら、ずっと物を生み出す場にいました」という寛幸さん。 職住一体の暮らしの中で、祖父や父たちの背中を見て育った。和装離れが加速する中、父からは外へ出てもいいと言われていた。高校を出ると専門学校で工業プロダクツデザインを専攻。仙台で車や建築のデザイン関係の会社へ勤め、その後、VIP用の手織和柄カーペットのメーカーへ転職。糸扱いや色彩学の基礎を学びながら、一方でイラストレーターやフォトショップなどデザインソフトの扱いを、いち早く会得。これがいまの現場にも生かされている。
プライベートでは、庄内出身の専門学校の同級生 知見さんと結婚。長女が産まれ、家から離れて約10年の歳月が経っていたころ、風向きが変わってきた。
「この頃には、孫かわいさもあって両親から、そろそろ帰ってきたらと声がかかるようになりました。地元の織物の専門学校も近いうち閉校になるから、行くなら今のうちだよ、と言われて」と寛幸さん。家族そろって戻ることを決心した。
「スタートは二人一緒、28歳でした」と知見さん。急に、實幸さんと学校に通うこととなり、きものに一切縁のなかった 暮らしは一変した。 華奢(きゃしゃ)で小柄な身体で三人の女の子を産み育て、三女が小学校へ上がると本格的に仕事を手伝うようになった。以来、そ ろそろ約10年となろる知見さん。どの工程が一番楽しいですかと聞いてみると
「え、楽しい?」と一瞬言葉が止まった。
「楽しいというより、とにかくいまはまだ必死という段階です。夢中で義母に習ってついて行くのみです」 一つのミスが後の工程すべてに影響してしまう先染めの織物、責任の重さを感じ、全く気が抜けないそうだ。
この数年は糸の準備をする一方で、空いた時間を見つけて帯を織るようにもなった。
「製品のラインナップに少しでもバリエーションを持たせたいと思って、つくり始めたんです」と寛幸さん。
知見さんは窓辺に置かれた手機に向かうと「いつか義母のように織を楽しめるようになる時がきますかね」とつぶやいた。一心に織り進めている横顔には、家族の一員として頼らりれるようになってきた自信のようなものも感じられた。
「家業に戻った当初は、呉服業界特有のルールに戸惑ったことも結構ありましたが、これからも先代たちのように、手作業を最大限にいかす物づくりを、時代に合わせた形で続けていきたいです」と寛幸さん。これからも、ご家族や工房スタッフ さんと共に、工芸というものの価値を見 つめ直しながら、白鷹町ならではの織物 を生み出していくだろう。
十字の板締め絣の合間に、タテぼかしの括り絣。鬼シボによるシャリ感が、なんともいえない手触り。
*問い合わせ
小松織物工房
〒992−0821 山形県西置賜郡白鷹町大字十王2200
Tel:0238-85-2032
(『花saku』2019年6月号掲載より)