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花sakuブログ

着る人と作る人を応援する「きものポータルサイト」へ生まれ変わります
2020年06月01日


こんにちは。

saku 編集部の大下直子です。



ブログのタイトルにもありますように、月刊 和の生活マガジン『花saku』は、いよいよ迫りつつある5G時代の到来に向け、2021年の春より、スマホやタブレットなど、どんなデバイスからもからも見ることのできる着物ポータルサイト『花sakuオンライン』へと、生まれ変わることになりました。

 

私は、30代の女盛りに突如としていきなり編集長代理を拝命しました。

『花saku』の編集部員を拝命して先輩や編集長に教えを請うて修行を経て、経験を積んでから、徐々に研鑽と勉強を重ねてスキルや知識を身に付け編集長になったのではなく、「いきなりステーキ」ならぬ「いきなり編集長代理」です。

 

やったことのない仕事で先輩や上司がいないという環境(北極あたりに置いて行かれたイメージ)の中で多くの友人、知人の助けを借りて、なんとか最初の4月号が出来上がったときは廃人になりかけていました。一ヵ月以上毎日終電で帰宅をする生活。ときに会社に泊まったりもしていました。

 

なんであんなに時間がかかったのか??? (永久(とわ)の謎)

 

何一つとしてやり方が分からない。

 

営業と販売しかやったことのない私に、編集長代理を任せる会社の役員さんたちもかなり度胸がありますね。

 

しかし女盛りは若かった!(私、体育会運動部出身なんです)

 

 

なんとか体力が持ちこたえて、その後も無事に「真っ白」なページにはならず、どうにかこうにか一ヵ月に一度の発行を続け、間もなく300号を迎えます。

 

毎日終電? 今、もう一度そんなことをしたらきっとあっという間にひっくり返ってしまいます〜〜〜(@@)今は優秀な後輩のおかげで、ノンビリです。

 


そんな意味不明で無我夢中の日々の中、編集長代理はいつの間にやら既成事実として辞令もないまま編集長となり、気づけば25年近い歳月が流れていました。もう、ビックリです。あちこち痛くなるわけです。

編集もライティングも未経験の私に、神様のいたずらのように巡ってきた「代打」のお仕事に約25年近く携わることになるなんて、夢にも思っていませんでした。



私が初めて取材に行った日本全国染織探訪は、栃木県で「真岡木綿」でした。

 

それから怒濤のように250箇所以上の産地、機屋さん、染屋さんを巡り歩きました。寅さんみたいですね(笑)

 

糸のこと、染のこと、織のこと、道具のこと、経糸と緯糸の交差するところにいつも大きな驚きと感動がありました。



特集でも全国各地へ取材や撮影に伺わせていただきました。

 

連載の取材や撮影でも、色々なことがありました。

 

初めての京都ロケは雪(2月)。なんと5月号の撮影でした。

 

京の町家の廊下の天然床冷房を骨の髄で知ったのは、このときでした。
(ストッキング1枚で歩いちゃいけないスケートリンクみたいな廊下)

 

ベテランのカメラマンさんに「新緑のみずみずしい感じの空気感で撮影をお願いしま〜〜す」と、雪景色の美しい庭で言ってのける無知。知らないと言うことは時として、大ベテランよりも強いんです。

 

「水を撒いて雪を溶かせ〜〜〜っ」

 

というカメラマンの号令に、「働かねば!」と、ホースを持って水道の栓をひねりました。

 

回らない。凍り付いているのです。

 

お湯をもらってきて蛇口にかけてやっとこさじゃ、蛇口は回りましたが、ホースの中がキンキンに凍っていて水が出ません。

 

 

ポキンッ ポキンッ と数センチごとにホースを折ること数メートル。

 

手はかじかんでほぼ感覚はなくなってきましたがなぜか気持ちはハイ↗

 

頭がおかしくなって、イッチャッタ頃、や〜〜〜っと水が出たと思ったら

 

 

ばばばばばばばばばばばばばばーーーーーーーーー

 

 

って氷がホースから機関銃のように飛び出してホースは凶器になっていました。
私、危うく、大正時代から使用されている大切な手吹きガラスの窓(揺らぎが美しい薄いガラスの文化財)を割るところでした。

 

 

 

セーラー服と機関銃の薬師丸ひろ子さんよろしく

 

 

「か・い・か・ん」

 

 

と思いましたが、カメラマンに怒られるといけないので言わずに我慢しました。

 (ここでは「セーラー服と機関銃」って橋本環奈じゃね?」という突っ込みは禁止しますが、上記のリンクは面白いオマージュの動画にリンクさせておきましたのでお時間のある人は青文字クリック。さて、どちらが懐かしい?)

 



珍道中あり、感動あり、偶然の出会いあり、珍プレーあり……。

 

その1ページずつを鮮明に思い出すことができるのが不思議です。
これが噂の走馬灯でしょうか?


一つひとつ思い出していると、涙がこみ上げてきます。



取材をご縁に今も親戚のように親しくお付き合いをいただいている方々もあり、ご縁の不思議さ、ありがたさを思うと、感無量の思いがいたします。
取材にご協力いただいた皆さまに心より感謝申し上げます。


たいしたスキルも知識も身につきませんでしたが、一つ自慢をしたいのは、
ロケハンなし、ぶっつけ本番のロケが多い中、

 


ほぼすべてのロケを晴れにした「晴れ女」ぶり。



映画のロケと違って「待つ」ことは一切出来ません。
月刊誌ですから決めた日に決行しなければ発行できないというギリギリのスケジュールで同時に何号もが進行していました。

 

晴れなきゃ発行できないの! という常に切羽詰まった日々。

 

 

切羽詰まると晴れるんです。



台風や爆弾低気圧の予報に悶絶する現地の方々やスタッフに

 

「それって、単なる予報でしょ?」

 

と言ってのけるこわいもの知らず。

私が25年間に一番編集部に貢献できたのは、「ロケを晴れにする」ことかもしれません。

 

 

後年になると、私が行く予定のない取材やロケやイベントでも「お願いします」と連絡がくるほどでした。

『花saku』の編集、発行は、スタッフが一番少ないときが私ひとり。

多いときで3人のスタッフで月刊誌を回し続けるめまぐるしい毎日だったからこそ、

瞬きをするように25年が過ぎ去ったのでしょう。

 

 

健康で、前向きに楽しい25年を過ごさせていただけましたことに感謝を申し上げます。



そして、長きにわたりご愛読いただきました多くの読者の皆さま、

本当にありがとうございました。

皆さまからお寄せいただくハガキやメールが栄養剤のようなものでした。

喜んでいただくことをエネルギーに換えて必死で踏ん張れました。



今後は若いスタッフを中心に、『花saku』の過去の膨大なコンテンツや、新情報をアップデートしながら、着る人と作る人を応援する着物ポータルサイト『花sakuオンライン』として、着物ファンの皆さまのお役に立てるよう、また、着物振興の一助となれるよう情報をお届けしてまいります。

5Gの時代にあって(老眼で)遠くしか見えなくなってしまいましたが、老眼であっても老害にならぬよう、若い、これからの人たちの足をひっぱぬよう、お役に立てることを少しずつ進めてまいります。

 

今、スマホがあったら私は亡くなった母に、行く先々の美しい風景や、珍しい食べ物などをLINEで送ったりできたのでしょうけれど、鉄砲玉、音信不通で随分親不孝もしました。今の私と同じ年齢の頃の母は、随分と寂しい思いをしていたことでしょう。土日もなく年中無休の夢中の日々でゆっくり母を関わっている暇がなかったというのが一応オフィシャルの「言い訳」です。

 

確かに、編集長代理になった頃、使っているMacもモニターはモノクロ。

 

しかも、複数で使っているので順番待ちで、
原稿はワープロで打ったり手で書いたりしていました。

確認も色校正ではなく青校正というとてもやっかいな頃で、
印刷入稿にはポジをお渡しするという面倒で時間のかかるやっかいな時代でしたね〜〜〜。



2021年3月号(2月20日発行)までは、最後の力を振り絞って(笑)月刊誌を発行してまいります。
引き続きご愛読をいただけますようお願い申し上げます。

また、どれくらいの頻度になるか分かりませんが、
意外にもたくさんの反響を頂戴しております再開したブログも
少しずつ綴ってまいりたいと思っております。

その中で、取材の思い出や珍道中のお話しなども書いていきながら
(そっちのほうが面白いかも知れない 笑)、
今少しの間、皆さまとお付き合いさせていただければ幸いです。



新たな時代の到来です。

「新しい生活スタイル」の中で、
大切な着物や日本の文化が忘れ去られることがないように、
年中行事や各地の祭りが、その「カタチ」だけでなく「ココロ」と共に
後世へと伝え残されていくようにと願ってやみません。

 

そのためにできることを考え続けていきたいと思っています。


『花saku』は、若い世代を中心に、オンライン社会に適応したポータルサイトへと生まれ変わります。

 

これからの『花saku』にどうぞご期待ください。

 

タグ: 花Saku  和の生活マガジン